『 漂流する着装 』

2015年2月13日

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一昨年、瀬戸内国際芸術祭2013秋会期に瀬戸内海に浮かぶ小さなスクリュー型の島・香川県の粟島で発表された、アーティスト・久保田沙耶さんの作品 “漂流郵便局” の局員制服づくりに関わらせていただきました。非常に多くの方々に関心を持っていただけた事により、会期が終わってからも作品は存続し、不定期で開局され、この度、小学館から書籍が出版されるまでになりました。各地から寄せられた沢山の手紙の中から69通が紹介され、制服の事も少し載っています。四六版のサイズも良い感じです。どこかで見かけられました際には、是非ご高覧下さいませ。もしよろしければ、漂流郵便局へ、返事が貰えなくても想いを届けたい人・もの・ことなどへ宛てた手紙を書いてみて下さい。


『漂流する着装』

芸術に独創はいらない。生命がいる。これはオーギュスト・ロダンの言葉。優れた新しい活字は、古い活字の慎み深いヴァリエーションだけであり、目新しさを求める活字のほとんどが好ましくない。これはヤン・チヒョルトの言葉。歴史や伝統というものは、それを調査・研究して、こういうものであると論理的に説明したり新しく解釈したりすることではなく、のっぴきならない或る過去の形に対する愛情と尊敬とを抱き、我々の努力と自覚によって、それを今に鮮やかに蘇らせることこそが歴史や伝統なのである。これは小林秀雄の言葉。

漂流郵便局という作品の一部として制服を加えることで、結果として作品全体があたかも気まぐれな形や珍奇を衒った仮装めいたものに見えてしまっては、本来のコンセプトの澄んだ流れを濁す泥流以外の何ものでもなくなる。製作の態度には、慎み深いオーセンティックさと現実的過ぎないモダンさとが同時に必要とされた。

制服の表地には濃紺のウール・サージを使用している。今でも様々なアイテムに用いられるベーシックな素材であり、制服の肖像または化身と言ってもいいかもしれない。一例を挙げると、半世紀くらいの前の時代には、リクルートスーツとして卒業年に再度新調された学生服の多くが仕立てられたという代表的な綾織の毛織物で、オーセンティックで端正な折り目正しさとともに、粟島の海風と長い時の中を潜ってきたかのような熟成の風合いや野趣をも纏っている。人の働く姿は最も美しいと考える。服そのものではなく、それを着た人・局員が局員らしく魅力的でなくてはならない。「人が生きている!」と、現代の服飾デザイナーを嫉妬させ続けているA・ザンダーの写真に写る20世紀の働く人々、郵便関連の各資料、そして何より、かつての粟島郵便局の集合写真を参照し、まだ宙空に漂流している新しい局員の姿を探していった。物流博物館などへも足を運び、リサーチを重ねていた久保田沙耶の直感が当初から特に拘りを見せていたのは、衿の形状と刺繍であった。私個人としては、衿の刺繍は不要で、無飾りでフォルムだけを強調したフィニッシュがとても良いと考えていたが、東京・神田の腕利き職人さんに相談しながら入れてもらった技術的にも高度な金糸の二本線は、出来上がってみれば美術家の慧眼であったと言うほかはない。刺繍に合わせて金ボタンを配したが、オリジナルの紋入りではなくプレーンで控えめなフラットボタンを採用したことは、漂流する郵便物の匿名性や局内の核となる私書箱の設えやテクスチャーとの関係性、そして前述した仮装性を避ける意味でも良いバランスだったのではと考えている。局員の心と姿とを最後に引き締める制帽は、服と同様のポイントに配慮しながら、天井張り出しのボリュームや腰の高さ、ブリムの下る角度、テープリボンの色みや幅、オリジナル郵便マーク刺繍の大きさと位置など、数多ある組み合わせのバランスを検討して漂流郵便局員の佇まいを探った。

一期一会とは、千利休の教えを門弟の山上宗二が書き遺し、井伊直弼が広めたと言われている、ひとつ私たちの日本という精神や方法を表すことのできる、茶の湯の心得である。漂流してきた一期一会のデッドストック・サージで仕立てられた制服を纏った局員がお預かりした手紙の数々と、来局者の皆様との、もしかしたら一度きりかもしれない邂逅が、生命に響く人生の特別な時間となることを切に願い、一礼をもって漂流郵便局の制服についての話を終えたい。

2014年11月  hPark

観劇

2014年11月2日

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Theater Audience / Honoré Daumier
c. 1856-60

光背

2014年10月5日

kouhai

δυο

2014年3月11日

freedom
)

SENSE of Wonder

2013年12月11日

S.O.W

 久野久の旧制東京音楽学校の前を通り過ぎ、『 SENSE of Wonder 展 @ 東京芸術大学大学美術館陳列館 』へ。「陳列館」という名前に高揚する。
素材=マテリアルを見つめ直し、探る作品展。教員や在校作家の作品と、学生によるマテリアルライブラリーと薬品未使用のZINE、それとワークショップからなる展示。二階の久保田沙耶さんの作品を目当てに伺ったが、一階の学生のマテリアルライブラリーはもう少しゆっくり見たかった。日々、何か焦って素材について深く考える事ができていない自覚は多分にある。つくるものは直接関係ないが、学生一人一人の作品や意図を自分の事と置き換えて観賞し考えてみやすい展示であったからである。こういう時こそ、時間をしっかり取るべきで、そそくさと、見さえすれば安心、手元に入手したら安心という精神は個人的に決して好ましくはない。二階の作家・久保田沙耶作品は、言わずもがなで、私のようなその段階に居る訳はなく、素晴らしかった。

物黒無

2013年11月5日

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 大阪の正木美術館45周年記念・秋季特別展『物黒無』の館外レクチャー@外苑キャンパス(東京藝術学舎)。正木美術館と現代美術家・杉本博司氏との墨の名品をテーマとした競演と対決。モデレータは「フクヘン」でお馴染みの鈴木芳雄氏 。レクチャーの初めは、グッゲンハイム美術館にて、杉本氏の『放電場』を染め抜いた雷(いかずち)紋の能衣装を纏った野村万斎氏が舞う、日本芸能の中でも最も古い形式である古典且つ野村氏の原点でもある『三番叟』の映像。お正月などに舞われ、古代神話から連綿と途切れずに続いている古来よりの「気配」。
 この展覧会は正木美術館所蔵の国宝や重文、杉本氏の美術作品や個人蔵・小田原文化財団蔵の深遠なるモノクロームの世界が展開される。会期後半は、一部展示替えもあるそうだが、例えば杉本ジオラマシリーズから、諧調表現のために現像液から写真技術の隅々まで一流の「もくろみ」や「たくらみ」が尽くされる事で、見事に叭々鳥図や中世水墨画を感じさせる『カリフォルニア・コンドル(1994)』を、国宝・大燈国師墨蹟2つで挟み”コンドル三幅対”と名付けたものや、似た括りのコレクションでの正木所蔵品と杉本コレクションの対決の数々は、その楽しさとともに、正木美術館の古く貴重なものが、杉本表装(今回は江戸時代の武士の雨合羽のきれや、昔の人がアルファベットを見よう見まねで模様にしたようなもの)とも相まって、結果としてこの上なく素晴らしく美しい並びとなっている。正木美術館高橋範子館長が突然の無茶振りにも何なく答えるバスガイド風口調で案内される雪村筆の『瀟湘八景図巻(室町時代) 正木美術館蔵〜全長6m〜』のスクロール画像に舌を巻く。梵字で描かれた文殊図の獅子からはよだれも。最後には再び映像『加速する仏(Accelerated Buddha)』。杉本氏の48枚組『千体仏(1995)』を繰り返し映し、そのインターヴァルを極限まで狭めていく映像で、最終的に千体仏は大行進のように震え、さらに溶けていき、視覚と意識が消滅に向かって加速し、あたかも最期の時や悟りを想起させるような作品である。この日拝見した映像よりは遥かに良い画質で、現在パリのピエール・ベルジェ – イヴ・サンローラン財団にて個展開催中で、その後韓国にてさらに高価で高画質なプロジェクターが用意され三面にて発表されるとのこと。
 オフィシエ受賞間もない杉本博司氏、来年はパリ・パレ・ド・トーキョーにて『今日、世界が死んだ。』展を開催の予定との事。これは『海景』をはじめとする氏の代表作とは反対に「終わり」の記憶なのだろうか。コレクションから巨大な隕石を展示予定であるそうだが、向こうはその辺の理解が凄く、建物には天井から地下まで隕石が突き破ったような穴を開けてもO.K.なのだそうだ。他に70万円のラブドールも持ち出し、世界の終焉を見せる。このあたりのネタバレはまだまだ序の口の範疇なのだろうと、観には行けないまでも期待する。聴衆からの質問に対し、17世紀ニュートンのLIGHTやゲーテの色彩論を絡めながら「銀塩写真のモノクロームに全ての色が表現されている。物の向こうにある不思議さはモノクロームでしか表現できない」は信念で、「夢もモノクローム」と仰ったのは、個人的にはリップサービスと取った。「したかった事が全て叶ったので隠遁に憧れている」というのは、半分くらいは本心なのかなと感じた。杉本氏・高橋氏・鈴木氏のトークに、あたかも九九しか知らない状態で、難解な微分積分に臨まされた感じではあったが、その至らなさがむしろ楽しく心地良く前向きになるような、原初的な大きな精神を取り戻すひとつのきっかけとなる有意義なレクチャーであった。

嬰ヘ短調の実験

2013年10月19日

Experiment in F# Minor

 Janet Cardiff and George Bures Miller
『 Experiment in F# Minor(嬰ヘ短調の実験)』 @ Gallery Koyanagi

えい【嬰】・・・音楽で、本来の音より半音高いことを示す語。「―ヘ短調」
⇔ へん【変】・・・ 音楽で、本来の音より半音低いことを示す語。フラット。

而今禾/竹松梅

2013年10月13日

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 Jikonka TOKYO(而今禾)での『竹松梅 / ハタナカユーコ展』へ。今年は ”静かな” 作品となりました。と案内状にあったが、その御言葉通り、削ぎ落とすことによって現れたその静けさの中に滲み出る様に宿る美しさと、作品と何とも調和の良い展示室のスケールとに高揚する。削り出した象牙から発露する規則的でありながらイレギュラーで、単純でありながら複雑な生き物の模様がこの上なく魅力的である。寡聞にして存じ上げていなかった名店 Jikonka の米田様ともお話させていただく機会を得、本店が歴史ある三重・関宿にあることならではの伊勢木綿の服や、日本が誇る綿織物の中心地・浜松の小さな機屋さんの素晴らしい素材等を拝見させていただき、それらからものづくりの背景と必然性、責任や使命を感じられ、お店や商品の美しさという存在全体に思想が満たされているという点において、而今禾と竹松梅との共通点を見出す。桜新町の駅は初めて降りたが、駅前の雰囲気にえも言われぬ良さを感じた。それはサザエさんのBGM効果ではなく、来たる東京オリンピックのための新国立競技場設計案が、その巨大さで議論を呼んでいる話と同様、道幅と建物の高さの関係によるのだと感じた。桜新町は桜並木の上の空が広いのである。新国立競技場はこのままのザハ・ハディド案でいくと、銀座の中央通りで制限されている高さ(60m)より4層分も高いものが、道路からの引きが一切無くそそり立つという事であるらしい。門外漢の自分は、専門家の職能と同じようにそれらの良し悪しを微細なレベルの肌感覚で判断できないのは当然ではあるが、気持ちの良いものではなくなる可能性は少なくはないとは想像せられる。巨大さは特に今回のコンペのプログラムに依るところであるとも聞いているし、建築というもの自体が、決定案から何の変更も無く進んでいくわけではないのが常識であるとの事だが、地球上で一体何名の建築家が応募出来るのかという程の厳しい今回の参加資格を持つ、世界有数の一流中の一流の叡智をもってしても、特筆すべき敷地の歴史をはじめとした、景観・普段の生活・安全面・災害時・オリンピック後のこと・維持費等々の、ものづくりの背景と必然性、社会的責任や使命から生み出される美しさという存在全体を思想が完璧に満たせるかどうかは、この上なく至難の業であると知る。七年後、オリンピックを誘致できた現在の東京において最も美しい景色のひとつである外苑前の銀杏並木の上の空、絵画館と立ち並ぶ景観はどうなるか。同じ事を服づくりでも果たせる様でなくてはいけない。