仕事後、原宿VACANTにて開催されたトークショーを拝聴する。リトルモアから出版された自叙伝的小説『影の部分』の著者であり、ゴダールの『息切れ(À bout de souffle)』を、未完の20分ラッシュをのみ観た段階で誰よりも早く買い付け(後にカットされた部分に、大変美しくお気に入りのシーンがあったそうだが、「どう切るか」も才能で、その点ゴダールはやはり凄いのだそう)、それに『勝手にしやがれ』という邦題を付けヒットさせ、フェリー二は好き過ぎて買い付けられなかったという秦早穂子さんと、ゴダールに造詣が深く、特にゴダールとその映画音楽と女性との関係について独自の解釈を上梓されており(ユングのサウンドトラック)、『勝手にしやがれ』は500回、いや800回は観ているというジャズミュージシャン菊地成孔さんとの対談。私も学生の頃に購入した「スクリーン・モードと女優たち」の著者が秦さんだという事を「今回初めて知った。」と、菊地さんが中学生の時購入されたというその本を出しながら冒頭お話しされた時、私は初めて知った。「スクリーン・モードと女優たち」巻末のプロフィールには、上述ような経歴の記述が皆無だからである。菊地さんが分析されたように「勝手にしやがれ」という言葉は、当時は相当過激な響きであったはずであるが、現在となっては映画のタイトルであるという事を越えて、何次にも使用され何の違和感も無い慣用的な言葉となっているほど、凄いものであるが、27歳でそれを付けた当人にすれば、理詰めではなく感覚的なものとしか言えないという事であった。2〜3日前にたまたま見つかったという『女は女である』撮影中のベタ焼きには、会場全体が興奮していた。奥でゴダールやクタールが見切れているカフェの席で、カリーナ、秦さん、 ベルモンド、ブリアリの四人が待ち時間で談笑しているものである。『ミッドナイト・イン・パリ』を観たばかりというのも相まって、一段階タイムスリップしたかのような感覚を味わう。『女は女である』は、当時の日本では、内容的に難しく、秦さんがゴダールを訪ねた際に、興行的にはうまくいかなかった旨を伝えると、「日本人に分かってたまるか」というような事を言われたらしい(笑)。秦さんも含め、会場も時代も女性が強いご時世であり、菊地さん曰く、日本においてその部分を韓流のマッチョ男子が補完していた昨今だが、その韓国では徐々に渋谷系が来ているらしく、ますます下を向く男性陣に、秦さんが「男が強くないと、女はただ図々しくなるだけ」と仰られた。『影の部分』は私はまだ未読なのだが、日本も含め映画界の神々が登場するというだけではなく、これからの時代に考えなくてはいけない事が沢山詰まっている書籍だという菊地さんの解説で幕を閉じた。

