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私塾通い。仮縫いの袖付け。ぐし糸の入れ方、いせの配分とその注意点、縫う際の手つきと持ち方、合印について、肩パッドのくせとり。先生のおっしゃるところに依れば、昔は左右それぞれの袖を担当する職人が居たというほど、袖を左右全く同じに付けるというのは大変難しい。これは、初めて袖を付けた1998年以来感じ続けている事で、主に縫い方向の反転・織組織・地の目や手くせ等に起因する。そして、違うからこそまた良いのだという事も大いに言える。逆回りでもほとんどズレが無いのは、山手線ぐらいのものだろう。起点となる前腋点辺りの合印は、外国の技術書によると「フォールスマーク」と言うのだそうだが、正直に訳すと「嘘のマーク」、さらにドイツ語に詳しい人によればすなわち「仮のマーク」という事なのだそうで、真の合印を設定する為の目安の点となる。身頃と袖を中表で合わせて持ち構える際の、先人の金言「ハナから1インチで縫え。」を教えていただいた。つまり、タチキリ端から約2.5センチ奥側の、袖と身頃の合わさり具合に目をつけるという事である。不思議な事にと言おうか、必然的にと言おうか、その部分は見事に合うようになっており、それとともに袖も適度に「いさって」くれるという、素晴らしい技である。勿論、絶対にいせを入れたくない部分もあるので、そのへんは手加減である。フィッティングでは、軽く羽織ったら前肩に手を入れて、前肩の仕上げを施す。自分の、特に肩回りの体型は、非常にくせがあると思っていたので、どれほどの不具合が出るかなと思いきや、プルダウン効果の賜物以外の何物でもなく、思っていたよりはるかに、というかほとんど問題が無いと言って差し支えないくらいの上がりであった。勿論、細かい補正は数多く有るが、もっとひどい事になるかなと考えていたので、人の体と動きに適った理論にこの上なく感動する。概要としては、大方良かった。袖の落ちも、「強いて言えばきれいに落ち過ぎているくらいかな」というお言葉をいただく。本縫いではプルダウンをもっときっちり効かせれば、服がもっと前に回り込んで来て、現状ちょっと広いかなと見える肩幅なども含め、着心地は上がり、見た目にはシャープになると思われる。袖を付けていて、素材に対して袖のいせ分量が多かったが、生地色が明るめとはいえ、結果としても上腕付近がやや太いと思われたので、修正すれば自ずと袖も細くなる。後ろの衿がもう少し上ってほしいので、衿ミツに「ツキどめ」を抱かせて、落ちない様にする。ボタンの位置を下げ、上下のバランスをすっきりさせ、返り線も少々変更する。採寸・製図の精度がさらに高ければ、もっと上質である事は確かだが、その不足を補って余り有る技法である事が体験された。型紙修正へ。

プルダウン

2011年8月14日

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私塾通いの日曜日。お盆とあってか、駅前の喧噪は控えめ、対して日差しは手厳しく遠慮なく。同クラスの生徒さんが欠席されたため、最重要項目『プルダウン』製法を贅沢な一人授業で受ける。肩入れでは、ぐし糸を入れて、いせ分を殺すというのは何度もやってきた事ではあるが、自分がやっていた内容より遥かに厳密に、何段階にも分けて時間をかけてじっくりと、真に肩甲骨のハリを出していく。使用生地の物性・風合いも大いに関係してくる。例えばカシミヤの様な、いせが入りやすい柔らかい生地の方が容易に思えるが(実際、大部分はそうであるが)、いくつかの要素を連動させていって得たい最終形にもっていくところまで考慮すれば、むしろそういった生地の方が難しいとも言える。今回の使用生地は逆に、しっかりとしていて強いので、いせは柔らかい生地に比べれば入りにくいとはいえ、肩を入れた時点で(布地そのものの力・縫い目の力で)かなり前肩の運動量たるふくらみが認められる。顎ぐりと衿との空間『三日月』の開き具合いに配慮して型紙をカットし、衿芯を同地の目で左右裁ち接いだものをカラークロスにのせて裁ち、<ネックポイント(NP)〜後ろの衿みつ>と<ゴージの端から顎ぐりカーブに入ったあたりまで>は同寸で衿を平らに付けていく。残りの<顎ぐり〜NP>つまり、NPのごく近くで、「あれ?間違ったかな?」と普通なら思ってしまうような距離を、良き手加減でいせて、細かすぎず荒すぎず止め付ける。ここから『プルダウン』。個人的には、服づくりの工程やディテールには、芸術的な香りを嗅ぐ事がしばしばだが、プルダウンの「衿・肩・袖回りが一体となって連動する」様は、その最たるものの一つである事に疑う余地はない。例えば、キモノスリーブやラグランで、前方性を出す為に前袖山切り替え線を伸ばすとか、パンツとかそういうごくわずかな例を除いて、「伸ばす」という行為は基本的には「あ〜あ、伸ばしちゃった・・」というような否定的な、もっと言えばタブーとされているが、ここでは逆に、進んでその一見タブーのベクトル方向へ「伸ばす」のである。そして、ふさわしい手つきや布地にたいする熟知が助けてくれれば、頑張らなくても簡単に伸びてくれるのである。なぜなら生地がそうなりたがっているから、そして何より理に適っているからと言えるのであろう。伸ばしながらも、衿のある部分はいせ気味にしたり、首が長い場合・短い場合などアイロンの当て方を分けて形づくっていく。ここも伸ばしちゃうの?という部分も伸ばしても、結果は、衿は浮かないどころか吸い付き、それでいて首に食い込む訳でなくて、しっかりゆとりが確保されていて疲れない。連動して鎖骨付近のくぼみ、そして前肩の運動量となる立体感も同時に出るという芸術品なのだ。勿論、まだまだ理論的にも技術的にも理解しきれていないので、今日のところは簡単な記述にとどめ、今後の勉強の糧としたいと考える。

化け物と熱と時間

2011年7月24日

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私塾通いの日曜日。突然訪れた快適な気候の数日を経て、不都合な事に暑気再び、くず桜恋しい摂氏30℃超の世界が取り返される。『芯据え』と『くせとり』を教わる。芯据えはこの一本だという要の線を押さえる。水分と熱と圧力によって、伸ばしたり縮めたりして布地の力をあちこちに配分して立体を形作るのが『くせとり』であるが、先生のくせとりは、形の美しさを引き出すという伝統的な効果だけでなく、試行錯誤の末、その上に運動機能をも備える様に考え出された。芯を据える前の最初のくせとり段階から既にデザインが始まっている。どこに孕みを持たせるか、どこをしゃくるか、どのダーツをどう活かすのか、ポケット袋布との兼ね合いなど。つまり、同じ型紙を置いて同じ素材で裁ったとしても、唯一無二のもの・それぞれ異なる立体感を持った服が上がるという事である。パリの有名老舗カフェでメゾンギャルソンを勤める方が、およそ年間1足のペースで新調しながら同型・同サイズ3足を長年ローテーションで回しているという仕事用のキャップ・トゥーも職人仕事の逸品だが、ご贔屓ブランドの永久保存定番にも関わらず1足1足の微妙なフィット感が違うというのと同じ話である。ここにハンドメイドのおもしろさ且つその質の高さがあるし、その人にしか出来ないという確固たる所以も存在する。アイロンの当て方について、先生がアイロンを使わず素手によって道程を示して下さったのだが、(水分も高温も圧力も不足する)素手で撫でているだけで立体がはっきり出る様を見たときには、凄過ぎて笑ってしまう程で、コテの効いた仕事が出来る手つきの凄まじさを目の当たりにした。半可通ながらも、布地の力を自在に配分していくには、このような手さばきが無くてはならないというのは疑う余地もない。学生時代からタテ地の目を見る鍛錬はしてきているつもりだが、ヨコ地の目については近眼と言える。ヨコを重視するという考え方も、目から鱗の一つであった。パンツのくせとりでも同様であったが、動きに適う様に前へ前へと追っていく、線を習っていく。そしてスピードの話。機械の性能が上がれば上がる程、昔の良いものを越えられるかどうかは疑わしいという事だ。

芯地

2011年7月10日

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limartannex

七月文月最初の私塾通いの日であった。ジャケットのフォルムを構成するのに、非常に重要な役割を担う芯地づくりを教えていただいた。有り物(既製)ではなく、型紙に合わせたオリジナルの芯を使う事で、服がよりフィットし、より立体的に仕上がるのを助けてくれる。そしてまた、こういった作業も私を魅惑するもののひとつなのである。ウールの台芯と化繊のバス芯を合わせる。昔ながらの、馬の尾毛が緯糸に入ったバス芯(漢字表記ならば文字通り「馬尻毛」。先生による)も見せていただいたが、その毛の張りと言ったら、表地から飛び出してくる可能性が高いほどなので、あえて使用することもしなかった。ダーツ部分の縫製には、昔のものだという電動ミシンをお借りしたのだが、これが家庭用だと、なおかつ嫁入り道具的な立場のものだと聞くにつけ、驚かずにはいられないほど上等(高機能)のものであった。ボビンの構造も本格的で、それ故、昨今の一般的な家庭用よりも精度の高いジグザクステッチをかけられるし、縫う音がいかにも素晴らしかった。重量がとんでもないというのが、唯一欠点と言えばそうである。柔らかくソフトに。服の内側に向かうにつれ大きく大きく。そして体が動く事を考えながら。学生時代、カメラワークの教諭が「人間の眼は適当にできている」とおっしゃった。勿論、ここで言うのは「いいかげん(悪い意味での)」という意味ではない。「良い加減(良き補正をしてくれるという、その事をふまえる)」という意味の方である。ハ刺しの糸の引き具合なども、この適当さであるべきである。先生の仕事といい、昔のクチュールの裏側といい、まさにその言葉が当てはまると考える。これは、その哲学の表れが成せる業である。指針・標。
授業後、出来得る限り日陰を選びながら「 lim Art annex 」を訪れ、大沼茂一さんという方の写真展『 東京都 』を最終日にて観賞する。このエリアは、ブックショップ、ファッション、雑貨、アンティーク、パーツセンターなど、見所は沢山あるのだが、一刻も早く自部屋にてシャツの水分を絞りたく、急ぎ帰路についた。

マニピュレーション

2011年6月26日

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上着研究の私塾通い日。個人的には、どんどん未知の領域に入ってきている。学ぶこと、練習することは、枚挙にいとまがなく、手に余ると言えなくもないほど。とはいえ、自分の能力に不足があることが自明である状態というのは、たまらない(とても良いという意味)。少なくとも自分にとって、できると勘違いして緊張感が無くなる状態というのは毒である。服づくりが本当に好きな人たちばかりが集まるので、実に楽しい。先生の、瞬時の判断による問題解決への幾通りものアクセスは、目指すべきところ。到達したい境地。授業終了後は、青山の「 Center for COSMIC WONDER 」へ寄り、ここでも私塾とはまた違ったアウラをあまた浴びて、新たな週に備える。

キャットウォーク

2011年6月24日

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夕方から、新宿で「 TSUMORI CHISATO 」のショーを観て勉強して来た。ショーが始まる前の喧噪から暗転し、音楽流れて勝手に始まる感じはいつも心地よい。個人的には、目線の高さのキャットウォークは久々だったので、懐かしくもあり新鮮でもあった。ニットのオールインワンで、シャネルスーツ風セットアップのようなトロンプルイユが印象に残ったが、視力が低いので、実際にもセットアップだったかも分からない。デザイン・音楽・構成など全てに教養がしっかりしていて、典拠がすぐに導き出せたら、深く味わえるのかなとか、いやむしろその逆かな等と考えつつ、もし自分がジャーナリストだったら、教養の無さから仕事にならないなと思いつつ、それはジャーナリストに限らずとも同じ事だと冷や汗もじわっと垂らしつつ、いや待てそれなら若いという時点で大方仕事になりにくいのではないかと自己肯定妄想してみたり、いやいや全然若くもないしなと再度焦りながら、作り手としては、風姿花伝の一部にあった事も再確認しつつ、一方で、何からも自由で楽しいという事も欠かせないな。などと、様々に思考を巡らせてみようとも、吹く南風暑き短夜が明けた頃には、せっかくの危機感すっかり薄れるこの性格を変えていく事こそ何よりも急務なり。

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ハーフスリーブと言っても、単にロングスリーブを途中でちょんぎった。という訳にはいかない。袖の性格を変えるには、肩線やアームホールを中心とした身頃全体が関わってくる。この一点だけ見ても、服づくりというのは無限に遊びを効かせられる。図書館で借りていたビル・エヴァンスについての書籍を読了したが、前述した事にも関連して、学生時分より漠然と感じていて、なかなかはっきりと言葉に整理できてはいなかった事が書かれていたように思える部分があった。今回は、あらかじめの対策によって、上衿の返り具合が良かったが、その代償として、ストライプ柄の表れ方に犠牲を払う結果となった。もっとふさわしい落としどころが有ったという事になる。
この度の閉店で初めて知った存在だが、六本木の<貴奈>が惜しまれながら閉店した。「歴史に幕」という言葉がある。惜しいものに限って幕が下りてしまうのか。幕が下りるから惜しいのか。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

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いつも楽しみにしている私塾通いの日。主要題目は、袖の製図だった。素晴らしい服、美しい服、良い服というのは、特に型紙の面だけで言ってみても、「えっ?!」と驚くほど簡素なものである。誰にでも容易にできるという意味ではない。かなり複雑なものを全て含んだ、もしくは経た結果のシンプリシティなのである。自分も寡聞なりに、それなりの枚数の袖を描いてきたが、本日先生に教えていただきながら描いた袖は、これまでの経験の中でも最もすっきり、あっさり、きれいに描けた事が明らかであった。このような線でないと、きれいに付かないという事は、頭では描けていても、実際はなかなかできないものである。ましてや、それを他人に教えるとなると、クオリティとクオンティティとを両立させて戦ってこられた先生でないと、こうはいかないだろう。さらには、線は良くとも、勝負はまだまだこれからなのだ。